1887年 7月6日 |
ロシアのヴィテプスクに生れる。 |
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1907年 | ペテルブルグの美術学校に入学するが、翌年 当時のロシア・アヴァンギャルド芸術の代表者と言われていたレオン・バクストの美術学校に入学。 |
1910-12年 | パリに出て美術学校からアトリエへと移り、様々な芸術家・作品・詩人と出会う。 |
1914年 | ベルリンの画廊で初個展。その後ロシアに向かう。 |
1915年 | モスクワでの「1915年」展に25点出品し批評家の好評を得る。 ベラ・ローゼンフェルトと結婚、ペトログラードに移住する。 |
1919年 | ヴィテプスクに戻り、美術関係の人民委員の職につき、美術学校の設立などに力を入れるが職場での仲たがいにより退職、モスクワに去る。 |
1920年 | ユダヤ劇場支配人グラノフスキーと出会い、その舞台美術を手掛ける。 翌年劇場がオープン、大好評を博する。劇場の壁画はシャガールが描いたもので彼の初期芸術の集大成と言えるものだった。 |
1922年 | 革命政府との関係が次第に悪化、故国を去りベルリンに滞在。翌年パリに到着する。 パリ到着後はそれまでの作品の改作・複製作りを盛んに行う。 |
1926年 | この頃、地方に訪れ風景画を多く描くようになっていたが、この年ニューヨークで個展が開かれる。 |
1926-28年 | 「寓話」の挿絵、「サーカス」などを題材にしたガッシュを制作。 |
1930年 | 「寓話」のためのガッシュによる展覧会が開かれる。 「寓話」の制作依頼主でもある画商ヴォラールが「聖書」の挿絵を依頼、シャガールの聖書をテーマとした作品の発端となる。 |
1932年 | アムステルダムで個展。オランダでレンブラントに感銘を受ける。 翌年にも大規模な回顧展が開かれ、20世紀巨匠としての地位を確立した。 |
1937年 | フランス国籍を取得。しかし以後戦況が悪化し、数度の移住後フランスを去る決心をする。 ユダヤ人である為、41年に一旦逮捕されるがマルセイユ駐在のアメリカ領事などに救われ、アメリカに渡る。 |
1944年 | 個展・ニューヨーク・バレエシアターの舞台装置と衣装を手掛けるなどアメリカでも活動をしていたが、この年妻のべラが急死、数ヶ月の間筆を絶つ。 | 1946年 | ニューヨーク近代美術館・翌年パリの国立近代美術館で回顧展が開かれる。 また、初めての色彩版画「アラビアンナイト」カラーリトグラフを制作・出版。 |
1948年 | 8月アメリカを去りフランスに移住、翌年にはヴァンスに家を購入する。 |
1950年 | ヴァンスでピカソやマティスと交流。 一方でパリで版画の制作を行う。以来リトグラフをムルロ工房で制作する。 |
1957-64年 | 教会・大聖堂など各所に壁画・ステンドグラス・ステンドグラス模型の制作する。 64年にはパリ・オペラ座の天井画が完成。 |
1973年 | 69年に着工された「ニース国立シャガール美術館」がフランスで現存する作家の為の国立美術館としては初めてのものとして開館。 |
1975年 | シェイクスピア「テンペスト」の挿絵の為のリトグラフを制作。 この年リトグラフ82点を含む「オデュッセイ」刊行、翌年「テンペスト」が刊行される。 |
1977年 | パリ・ルーブル美術館で大統領の出席を得てシャガール展開幕。 イスラエル旅行でエルサレムの名誉市民となる。 |
1978年 | 教会・大聖堂へのステンドグラスの制作を続ける。 この年「詩篇」の挿絵のための銅版画を制作。 |
1985年 3月28日 |
サン・ポール・ド・ヴァンスの自宅で死去。 |